柄谷行人「言語・数・貨幣」を読む(1)

柄谷行人が『内省と遡行』という本の中の論考、「言語・数・貨幣」の中で書いていることで興味があったことを書いてみる。

19世紀後半以後の幾何学においては、遠近法的空間(ユークリッド空間)は、形式的であるがゆえに批判されるのではなく、充分形式的ではないがゆえに、暗黙に”知覚”に依存しているがゆえに批判されるのである。そして、遠近法的空間は一つの公理系をとることによって成立するものであり、べつの公理系をとればべつの空間が成立すると考えられる。それはヒルベルトにおいて次のように徹底される。《テーブルと椅子とコップを、点と直線と平面のかわりにとっても、やはり幾何学ができるはずだ。》(「幾何学の基礎」)

『内省と遡行』p118-119

そして、フッサール現象学構造主義はほとんど同じであると柄谷行人は述べています。

これは、思想史解説本とはまったく逆のことを言っています。

が、説得力があります。

基礎付けとなる「無意識的な下部構造」を前提に話しを始める構造主義

フッサール現象学は、なぜ、「無意識的な下部構造」が存在するのか?を問いとします。

構造主義は、「無意識的な下部構造」を問うことを放棄している、だから”自然主義”として批判される。

フッサールが、超越論的主観性を内省=遡行で考えた挙句、「自己言及をするな!」で終わってしまう。

これは確かに、そうだ。

基礎論を突き詰めて行くと、答えはすべてゲーデル不完全性定理へと行き着く。

ポパー反証主義もそうだ。

よく言われる批判。

反証主義自体は、反証可能なのか?」といった批判は、ゲーデルのやった仕事で充分なのだ。

ま、感覚で書くとこうかな・

学者、思想家は、社会の偏見をとりのぞき、より良い社会にしたいと思っているわけだ。

だから、ある誤解や偏見を論理で解いていきたい。そのために基礎となる人文科学の科学的方法はフッサールフロイトマルクスが各分野でやったような基礎論なわけ。それを使って、あれこれやっているのが構造主義とも呼べる。で、構造主義自体が、その構造自体に言及していけば、ポストモダンポスト構造主義になるわけ。で、ポストモダンポスト構造主義は、何をやっているかというと、結局、哲学の存在理由として生まれた構造主義以前の形而上学に戻し、好き勝手に、言葉を弄んでいるだけ、ということになる。

こんなことは、ゲーデルのお話で終わりにしようと言うのが僕が今まで読んだ柄谷行人さんの文章の感想かな。

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追記:2007/05/21

人は言葉でしか語り合えない。

言葉でしか、意味を把握できない。

しかし、自分だけが分るというのは、本当に分ったことなのだろうか?

それは独りよがりであり、単なる独我論である。

独我論を相手、他者に分らせるために、言葉を使用する。

相手と対話するとき、私の言葉、私の考えがいかに伝わらないか、愕然とする。

同じ人間なのに、なぜ、こうまで分かり合えないのか?

そして、歴史的事実を記録で追って行くと、いかに人間が理解し合えないまま、殺し合っているかがよく分る。

素朴な疑問。

言葉があるにも関わらず、なぜ、暴力という手段を用い、それで相手を消滅させるまでの行為に至るのか?

これが私には分らない。

どうしてここまで殺し合う必要があるのだろう?

今まで(過去の歴史)さんざん、殺し合い、無益なことだと分ったのではないのか?

どうして、人は人を殺すのか?

そして、どうして人は人を殺してはいけないのか?

これが、私が哲学に取り付かれた動機でもある。

アウシュビッツアイヒマンが「一人の死は悲劇的でも数千、数万の死は統計上の問題にすぎない!」と言った(記憶曖昧)、この真実を何と捉えるか?

私は、このアイヒマンの発言になるほど!とうなずいてしまった。

そして、自分の中の倫理観から、「嫌、ちがう!」と言いたくなった。

根拠をいくら探してみても、我々の社会では、アイヒマンの発言を至るところで裏付けているしかないように思える。

それは個人と大衆という問題なのかもしれない。

こうやって、私の疑問は無尽蔵に膨れ上がって行く。

人間とは?

死とは?

生きるとは?

時間とは?

倫理、道徳とは?

因果律とは?

宗教とは?

存在とは?

・・・・

そして、その究極の根底にある言語という構造。

これから始めなければ、先には進めないような気がする。

別に先に進まなくていいじゃん!という方、あなたは哲学者でも思想家でもなく、単なる哲学愛好家でしかない。