犬という言葉から

僕の子どもの一人に1歳の男の子がいる。

最近、少しずつ言葉を喋りだした。

犬を見かけたとき、「ほら、ワンワンだよ」と教えてあげた。

すると、犬を見つけて、「ワンワン、ワンワン」と言っている。かわいい。言葉が分るのだなと思った。

がしかし、猫が歩いているのを見て、「ワンワン、ワンワン」と言っている。

これはどういうことだろう?

四つ脚で歩くモノを「ワンワン」と認識しているのだろうか?

次に、水族館に行ってみる。

流石に、魚には、「ワンワン」とは言わない。

では、やはり四つ脚が彼の中では、「ワンワン」というグループに入れられていることになる。

で今度は、毛の長い飾りを見つけて、「ワンワン」と言っている。

う〜む、毛がふさふさ生えているものに対して、「ワンワン」と認識しているのだろうか?

・・・・

こうやって、一つずつ言葉の意味を修正しながら、その意味を理解していくのが人間なのだろう。

子どもを見ていると、世界が母親からはじまって、自分と他者の違いを区別し、そして言語というものを把握していく・・・過程が見られ、なるほどと思う。

赤ちゃんって、目が見えてくると、自分の手を一生懸命に見ている。

言葉に出来れば、「これ、何だろう?」という顔をしている。

しかし、そこに言葉という世界はない。*1

言葉を使ってしか表現できないので、言葉がない世界での表現の仕方を説明することは不可能である。

やはり、我々は言葉に依存しているし、意味さえも、言葉があることによって、成立しているのだと思う。

そうすると、プラトンの考えた、イデア的なものが先にあるのではなくて、言葉(言葉に代わる行為でも何でも含む)を憶えることによって、イデア的なもの=概念へと至るわけである。

つまり、言葉を覚えて、習得して、それを修正しながら、意味概念へ行き着くよう、親、先生、社会に関わることで習得していくわけだ。

これが生活世界での哲学だろう。

しかし、次に疑問に思うのは、

AならばBという論理式である。

この原因と結果をつなぐ論理は、全宇宙を貫く絶対法則なのだろうか?

もう、この辺でやめて寝ることにしよう。

(1)赤ちゃんに言葉はある。泣いたり、あーあー言ったりする言葉はある。その意味で、言葉はないという表現は誤りだ。しかし、僕が言いたいのは、社会で通用する言葉みたいなものだ。



続き・・・6/5

AならばBという論理式。これが全宇宙を貫く法則だという証拠はどこにあるのか?

我々が認識する場合のこの論理式は、単なる反復による習慣なのではないだろうか?

今まで何百万年、太陽が東から昇ってきたから、明日も太陽が昇るだろう、という推測。

*1:1